始まり。
わたなべゆう作品 collection (個人蔵)
オブジェ作品(右、個人蔵)
「社会からも、組織からも、権威からもまた文化からも逃れられないのなら、その中に身を置きながら自分自身の表現を解放させていく以外に無い。そして、その質の高さによって自由を得ることを…。」
20数年前に、美術家わたなべゆう氏から手渡された「フォルム」という仲間と発行した同人誌の中に、「彼は誰時」という、氏の自伝ともとれる連載を読んだ事がある。
「私の事は全部ここにかいてあるから。」
幾度となくその生い立ちや経験、画業の裏舞台を聞かれたのだろう。安井賞を受賞した当時45歳のわたなべゆう氏から手渡された冊子のコピーにそれまでの生き方と言葉があった。その当時は頭で理解しても実感することができなかった、他者の経験を自分の感覚で味わい、咀嚼する難しさがあった。ギャラリーでコレクション展を開催するにあたり、本人の言葉を聞き返す機会に恵まれ、振り向いてみれば「最後のインタビュー」になった2019年5月のインタビューと共に、そこに散らばるキーワードの意味を読み解くためにこのインタビュー記録を始めるきっかけとなった。
題名の「かはたれ」という意味は、あたりが薄暗く、人もはっきりとは見分けられない時間を指す。この連載で氏は自分自身のことを「彼」という三人称を用いて表現している。
「太陽と地平線が交わる境界の時間」に「彼は誰か」と問う。自分自身を俯瞰した視点で「自分は何者か」と、謎めいた問いから始まる。
そして、わたなべゆう氏はインタビューでも日常会話でも、その人自身を表すあらゆる方法を「表現」と呼んだ。表現とは「自分が何者であるかを知る事。」であることと同時に自分を開放させてゆく手段であると話していた。
繰り返し語った「表現」そして「自由」
“自分を通して表現するもの、消しても消しても出てくるもの、人類共通の記憶ともいえる、ニオイ、空気、エッセンスを発酵させて出てくるものを描いている。”
それは何か、それを読み解くことでそれぞれの人の表現を理解することの鍵になるのかもしれない、このブログのテーマに据えた言葉、その場と源流を記録する媒体とする。
第1回「風土」わたなべゆう
2019年・山口画廊にて撮影(背景作品は風土22)
2020年、11月山梨県河口湖町、作家のアトリエのある町でのギャラリーSouで行われた追悼展示で「風土1」1989年「(スペイン美術展トリエンナーレ)を見た。
「風土」シリーズとは、作家の代表作であり原点。上野の森美術館大賞から安井賞をはじめ、各コンクール、文化庁や、美術館買い上げとなった作品の内の作家の代表作のタイトルである。
わたなべゆう氏
「最初の頃に描いたものにその人のエッセンスが含まれている。」
ーインタビューより。
その風土1にあるモチーフは2020年、3月、作家のアトリエで亡くなる間際まで、描いていたモチーフに酷似して、そして熟成した形がそこにあった。消しても消しても浮き出る形、生涯作家を惹きつけた記憶の一片が絶筆の中にも含まれていた。そのモチーフで何を伝えたかったのか、何を残そうとしたのか。その「風土」とは一体、何か?
2019年5月27日インタビュー
2019年5月27日インタビュー
(千葉県市川市Gallery Le Maniにて)
1時間15分に及ぶインタビュー冒頭は「風土」の話題から始まった。
わたなべゆう氏
「(風土)という名の付く書籍は知っている、実際に読んだけれど、自分が言う風土は土地としての風土や気候的な風土ではなく精神的風土としての風土を指している。」
そのあと、過去にさかのぼり、風土の表現にいきつくまでの道のりを語ってくれた。
ーわたなべゆう氏
「イラストレーターとして就職したんだけど、絵がイラストになり、イラストが絵っぽくなって困ったことがあった。」
「イラストだと食べていかれるからね、それはしたくなかったから、他に汗かく仕事をして、絵を描こうとした。」 -インタビューより。
わたなべゆう氏の事を語る時、必ず持ち上がるのが5年間の放浪の話だ、学生運動とヒッピームーブメントが新聞やテレビで報道される毎日、路上で待機する機動隊を見かけるという物々しい世情の中。一人、新宿の交差点をジーンズ姿で横断してゆく、ボブディランを聴き、会話にニールヤングの言葉を用いることを好んだ、肩まで髪を伸ばした青年の1969年から始まる旅の話だ。
目で採取した船の錆、色褪せたコンテナ、絵をかいていなくとも目に映るものすべてが画質へとつながる。わたなべゆう氏は、そういった風にさらされたものを見続け、風化や、そのものを再現する独特のマチエールの画肌を展開し、コンクールに出品し続け、プロの作家の中から推薦制で選出される安井賞を受賞してからも数年、船にコンテナを積むという港湾労働を続けた、そののちに画業一本に絞っていった。
どの時代、どの場所においても失わなかった精神的風土は画業のテーマであり主幹である、それは自分自身の代表作だと作家本人の言葉として聞いている。
以後の画業に反映する「風土」シリーズに脈々とつながってゆく根幹を成す記憶は、実際に自分で旅をしてその土地で生活してる人の風土を見るところからだった。
「外国の人が私の絵をみて懐かしいって言ってくれた、その相手の土地を知らないし、その人の故郷は知らないが懐かしさというものが感じられるDNAがあるのだと思う。」
「実際会ったこともない、見たこともない、だけれども、個人の記憶だと思う。相手のことを知らなくても人類全体の惹きつけられるものがあるのだろうと思う。」
「旅をしてそのままの風景を描くんじゃない、かつて旅をしてきた、目で見て採取してきたものを発酵させて描く、だから、いつ、どこからでもはじめられる。今いる山梨のアトリエに、たまたまいるだけであって、私が行くところいるところが風土になる、そういう精神的風土のことを風土と呼んでいる。」 ーインタビューより。
「風土1」はスペイン美術展に出展しているので、外国人の意見を聞いたのはその頃の経験であると思われる、日本、外国の境界なく共通する記憶、ニオイ、空気、そういったものを描くとこで共通の記憶に触れること、それが風土シリーズにある。
「実際会ったこともない、見たこともない、だけれども、個人の記憶だと思う。相手のことを知らなくても人類全体の惹きつけられるものがあるのだろうと思う。」
「旅をしてそのままの風景を描くんじゃない、かつて旅をしてきた、目で見て採取してきたものを発酵させて描く、だから、いつ、どこからでもはじめられる。今いる山梨のアトリエに、たまたまいるだけであって、私が行くところいるところが風土になる、そういう精神的風土のことを風土と呼んでいる。」 ーインタビューより。
「風土1」はスペイン美術展に出展しているので、外国人の意見を聞いたのはその頃の経験であると思われる、日本、外国の境界なく共通する記憶、ニオイ、空気、そういったものを描くとこで共通の記憶に触れること、それが風土シリーズにある。
写真(20数年欠かさず送られてきた案内状)
そのうちに作家のサインである「YOU」が用いられた。どうしてサインが1人称でない「君」を指す二人称の「YOU」なのか?そこには鑑賞者である他者の存在が確実に存在することを表す。
それは作家自身の記憶であると同時に鑑賞者の記憶であると聞いたことがある。
作家の精神的風土の耕作の軌跡であり同時に
鑑賞される者との共時性を問いかけるもの。
<風土というテーマと表現について語られてきたこと。>
わたなべゆう氏
「私の絵は私自身の記憶でなく鑑賞する人の記憶に触れるきっかけであればいい」
そしてその表現については、
そしてその表現については、
「天才じゃないんだから、いくらでも発想がでてくるわけじゃない、一人の人間が描けるものに限りがある、だが水準を落とさずに先の作品に行くことができる。」
「それは壊すことだ、うまくいったと思っても人の手に渡らなかったものを守ってる限り本物に近づけない。」
-インタビューより
自分自身を見つめ、繰り返し壊し、質を高め自分自身を自由へと解放へと導く表現。
その心の置き場が精神風土であり鑑賞者の風土であるのなら鑑賞者の数だけの精神風土が存在する、それだけ壮大なイメージを、人類共通に展開する豊饒な精神世界、そういったフィールドを展開することができると教えてくれた。
記憶にある「わたなべゆう」氏は港湾労働に耐えられる程の大柄な体格で長身だった、180cmと聞いた記憶がある、作務衣を着ていたことも、蚊帳でこしらえた古布で出来た作品を着ていたこともあった。港湾労働で鍛えた体躯は筋肉質だが痩せていて飄々とした身軽そうな雰囲気も醸し出していた。よく浮遊感を感じると語っていた。もしかしたら自分でもわからない何かをキャッチすることが出来、それをリリースする場が絵画表現であったのだと思う。汗をかき、全身を使い夢中になってるうちに、
「こんなものが出来た。」と。
本人が思いもよらない形が生まれることもあり、時にシャーマニズムを思わせる発言も多く、風や匂い空気、物体の周りにあるものを表現することに終生こだわった。
「目で見えないものを伝えようとしていた作家であった。目で見えないけれどあふれるほどの豊かさを感じ、それを伝えるために引っ掛かりとして「もの」が必要であった。
その「もの」の形が非常に強い、それゆえにその周りの空気を作り上げる。
画面の中には制作者本人がそこにいた、と同じような強さがあった。
身体は失われても、その精神風土は画面で展開され、耕され、発酵し、空気と匂いが風に乗り、鑑賞者の記憶の引き出しに触れるかのように語りかけ、やがて誰かに引き継がれる共通の記憶となるのだ。
<わたなべゆう 略歴>
1950年 山梨県河口湖町にて生を受ける。
1990年 第1回オギザカ大賞展 大賞受賞
第八回上野の森美術館大賞展 大賞受賞 日本アイ・ビー・エム美術奨学大賞1991年 初個展 吉井画廊(銀座)
1992年 第21回現代日本美術展 佳作賞受賞
1994年 第6回山梨県新進作家選抜展 山梨県立美術館賞受賞
1995年 第38回安井賞展 安井賞受賞2000年 文化庁作品買い上げ
2001年 第10回台北ドローイングビエンナーレ(台北市立美術館)
2002年 安井賞40年の軌跡展(つくば美術館)
2004年 戦後美術 俊英の煌めき(川越市美術館)
2005年から毎年 江原画廊へ出展(東京)
2007年 両洋の眼(日本橋三越08年、09年)個展 吉井画廊(パリ)
2008年から毎年 山口画廊へ出展(千葉)
2019年 個展を中心に活動、無所属。
2020年 3月 永眠
作品所蔵美術館(文化庁・山梨県立美術館・河口湖美術館・上野の森美術館・心の花美術館・他多数)
2019年6月のコレクション展DM
Gallery Le Mani
文・写真・燈tomori編集部
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©Gallery Le Mani