日本画家 小﨑拓郎さん
「ちょうど一週間前に亡くなったんです・・・。今思えば絵を描き続けるきっかけをくれたのは、他ならぬ祖父(母方)の存在があったからこそです」(小﨑拓郎(おざきたくろう)さん。以降「 」内は小﨑さんの談です)
【絵を描き続けるきっかけをくれた祖父の言葉】
この4月から東京藝術大学の修士課程に進学が決まっている日本画家の小﨑拓郎さん。
これから進む大学院の日本画科第二研究室では、主にスケッチや素描を重点的に学びながら、自分に何が出来るのかを探っていきたいと言います。
小﨑さんは幼い頃、祖父母の住む大阪へ年に数回遊びに行っていました。
「祖父は亡くなるギリギリまで僕が絵を描くことを応援してくれていました。子どもの頃、僕が象の足を模写している時、子どもってどうしても線一本でさらっと簡単に描いてしまうじゃないですか?そこで祖父が優しく耳打ちしてくれました。『もっとよく見て描いてごらん。ここの皺がこうなって、爪はああなって・・・』。今思えば、写実的に描くきっかけをくれたのは、祖父だったんです」
物心ついた頃には既に絵を描き始めていたという小﨑さん。
祖父からのその一言が現在は画家となった自分の礎(いしずえ)となっているようです。
【母をいつも驚かせる小﨑少年】
「小学生の頃は、休み時間になると校庭に出て友達とドッジボール、ではなく校庭の隅っこに行って虫取りに明け暮れていました。道具箱や筆箱の中に土を敷き、取ってきた虫を密かに飼育したりして。そんな話を担任の先生から懇談会で聞かされた母は仰天していました」
乗り物やアニメなど、いわゆる子どもが好む遊びよりも、捕まえてきた虫を観察しては絵を描き続けることに夢中になっていました。
両親や祖父母が博物館に連れて行ってくれたり、図鑑をプレゼントしてくれたことが小﨑少年の興味をかき立てるきっかけになったのかもしれません。
現在、25歳となった小﨑さんの部屋には、たくさんの生き物が同居しています。
その内訳は、蛇×7匹、トカゲ×1匹、蛙×3匹、亀×3匹、熱帯魚×複数、カブトムシ、サソリ・・・。
「寝る時に布団の端が反り返るほどスペースが無くなってしまって(笑)気がついたらこんなに増えていました。動物園でもないのに、一つの部屋の中にこれだけの生態が存在するというのもなかなか無いと思います」
小﨑さんの住む千葉県市川市には、自然保護区である行徳野鳥観察舎(*1)があります。小﨑さんが通っていた学校の通学路近くにこの自然豊かなエリアがありました。
「高2の夏、ここで初めて野生の蛇を見ました。しばらくじっと観察しているとある企みが僕の中でむくむくと大きくなり・・・。気づくとスクールバッグの中身を全て自転車の前カゴに移し、その蛇を手で捕まえてバッグに放り込み、チャックを閉めて家まで連れて行っちゃいました」
それ以前より小﨑さんは「蛇を飼いたい」と両親に懇願していましたが、この世で一番嫌いなのが蛇、というほど母は大の苦手。諦めかけていたところに偶然現れたこの蛇を見て「買ったんじゃなくて、偶然見つけちゃったんだからいいよな」と自分なりの言い訳を考え、興奮しながら家に持ち帰ったと言います。
その時のお母様の驚愕ぶりが目に浮かぶようです。
「そうして蛇を飼い始めた数年後、市内に、爬虫類ショップがオープンしました。お店の人と親しくさせていただいて、僕の描いた蛇や爬虫類の絵を持って行くと飾ってくれて、その分、餌代を安くしてくれたり。今でもそのお店には通っています」
【ただ”描く”だけではない。絵の中に込めるコンセプトとは?】
小﨑さんが大学1年生の頃に描いた
『喜びの唄』という作品があります。
生まれたてのネズミの赤ちゃんを描いた一見ほのぼのとした絵です。しかしこの小さなネズミの赤ちゃんたちには、これから蛇の餌になる悲しい運命が待っています。
ではなぜこの絵のタイトルが”喜び”なのでしょう?
「”喜び”には、ネズミがこの世に生を受けたことへの喜び、その一方で絵には登場しない蛇が餌を食べる喜びとダブルミーニングがあります。一見、残酷な印象を与えてしまうかもしれませんが、実は我々人間も何か他の命をいただくことで自らの命を繋いでいます。我々の場合、食材として加工されているがゆえに、その現実が見えにくいから罪悪感に薄いと思います。ただ”かわいそう”と思うだけじゃなく、生きるとはそういう現実にも向き合うべきだ、と当時の僕は少し尖った目線でこの絵を描いたと思います」
なるほど。幼い頃から様々な生命と関わりを持ち、その命が果てる瞬間を見続けてきた小﨑さんだからこそ描ける世界だと得心しました。
小﨑さんの作品は、ほぼ100%動植物をモチーフにしています。
「これから先も絵の中に必ず”命”を入れていきたい」と強調しています。
もう一つ作品について触れます。
小﨑さんが東京藝術大学の学士課程終了作品として描いた『楽園』
この絵を観た時、筆者はタイトルと描かれている世界との間にあるギャップを感じました。
木々に囲まれた仄暗い背景の中心に群がる複数の蝶。
生命力と同時に野生の生々しい息遣いを感じ取りました。
そこにはおおよそ”楽園”とは言い難い、ある種の違和感がありました。
「これは蝶の吸水行動を描いたものです。蝶は集団で水や動物の尿を飲みに群がる習性があり、不思議なことにこうして集まって飲むのはオスだけなんです。なぜオスだけがこうした行動を取るのか、今に至っても未解明のままです。ただ、蝶というとお花畑にひらひらと美しく舞うのがなじみ深い姿ですが、生命活動を維持するためのこうした集団で吸水する様子に、何か得体の知れない狂気じみた空気を感じ、それを伝えたい、と思いました。流れる水が赤みを帯びているのは、蝶が吸う水に媚薬のように不思議な力が含まれているような、そういう狙いがあります」
ただ絵を描くだけではなく、その平面に何か意味やメッセージを込めたいと小﨑さんは言います。
【東京藝術大学という学び舎。上野の森に育まれた大学生時代】
「絵としての”強度”を上げる。これは藝大に通って学んだことです。何となく何も考えずに描いたものって、上手く綺麗に描けていても先生たちにはバレてしまうんですよね。そこにコンセプトを持たずに描いたことが」
4年間、上野の森に通って体得したことを語ってもらいました。
「周囲もやっぱり、藝大生なんですよね。皆、感性が豊かで自分より秀でている人がたくさんいます。先生や生徒も高い芸術性や表現力に富んだ人々で、彼らを目の当たりにしながら4年間を過ごせたのは本当にありがたかったです。それから、僕のノリについて来てくれる人が多くいたのも嬉しかったです。例えば、遠くまで僕が虫を取りに行きたい、というとそれに勢いよく同行してくれたり。それぞれの趣味や感性の面白いところを見ようとしてくれる、これは藝大生ならではじゃないでしょうか?理解してくれる仲間がいるというのは幸せなことです」
【絵を真剣に学びたい!そのきっかけとなったのは?】
そんな小﨑さんですが、大学で日本画を学ぶに至るまでは、どこか絵は趣味の世界でいいかな?という思いがあったといいます。
「小学校6年から中学、高校とずっと剣道をやってきました。高2になってそろそろ進路を考えなければ、という時に大学へのスポーツ推薦の話しなどもいただいたりしました。ただ、上には上がいるというか・・・当たり前ですが、剣道は勝ち負けのはっきりした世界で、自分よりも身体能力の高い人はいっぱいいますし、それで進学してもその先何があるんだろう?と」
それでも小﨑さんは高校3年間の剣道部を全うし、春の関東予選、夏の総体を終えて部活を引退します。
またもう一つの選択肢として、高校で理系クラスに属していた小﨑さんは、大学へ行くならば、東京海洋大学(*2)や日本大学の生物資源学部へ進み生物の勉強をしようか?と漠然と考えていたようです。
「数ヶ月先に関東予選を控えた高2の冬、僕にとって一つの転換期を迎える出来事がありました。ピアノをやっている妹が以前にテレビで観ていた『のだめカンタービレ』(*3)というドラマを全部一気に観たのです。ドラマの中で、最初は周囲にダメ出しされても、仲間と切磋琢磨しながら最後には皆を喜ばせるピアノを弾いちゃうのだめちゃんが痛快でした。自分の内面や表現したいことを評価してもらえるのっていいな・・・。同じ志の人たちが集まっている世界に身を置いて学んでいることがとても羨ましく思えました」
そして、両親に大学で絵を学びたい思いを伝えると『やってみなさい』とすんなり快諾してくれました。
「両親は幼い頃から僕を見てきて、この子は生物か絵の世界に進むのだろうと概ね予想していたようです。自分の進みたい道に理解を示して経済的にも支援してくれる両親には感謝しかありません」
進むべき道を決定した後は、さてどの大学を目指したらよいか?
「すごく浅はかなんですけど、最初は多摩美術大学を受けてみようかな?とオープンキャンパスに行ってみました。のだめカンタービレに出演していた竹中直人さんが卒業されたという理由だけで(笑)。そもそも恥ずかしながら、その頃の僕は藝大を学芸大と勘違いしていたほどに知識がなくて・・・。でも東京藝術大学の学生たちの展示を見る機会があり、その作品の基礎力の高さに驚きました。僕はスタートが早くない分、基礎をきちんと身につけることが大事だと思っていました。特に日本画は基礎力が命です。そういう訳で藝大一本に絞って受験しました」
【自然物の素材を用いて自然界を描く。日本画から学ぶ多くのこと】
小﨑さんの制作に用いる画材として『岩絵具』(*4)という名前をよく目にします。
岩絵具は、鉱石を粉末状に砕き、そこに膠(にかわ)(*5)と水を混ぜて作る絵具で、調合次第で色味が変わるため毎回同じ色を作るのは難しいです。また手間もかかります。
「僕は自然界のものを画題にしているので、自然物を素材とした絵具を使って描くことに意味があると思っています。それに加えて子どもの頃から触ってきた土や砂と感覚が近くて、自分を表現する道具としてこの岩絵具は秀でています。確かに色を作るのに時間がかかりますが、その手間も含めて制作過程の面白さと捉えています」
小﨑さんが強く影響を受けた田中一村(たなかいっそん)(*6)という奄美大島を多く描いた日本画家がいます。
「畏れ多いのですが、自分が描きたいものと田中一村さんの作品に似たものを感じています。構図や画題のモチーフも生き物が多いです。絵から滲み出てくるような奄美の湿度感が素晴らしく、僕にとっては圧倒的な存在です。いつか一村の作品現物を観に奄美大島まで行こうと思っていたら、今年の夏、上野の東京都美術館に作品がくるようなので、必ず行きます」
最近は昔の日本画から学ぶことが多いという小﨑さんが、構図について語ってくれました。
「古典的な日本画などを観ていると、空間を作り出す方法に長けていることが分かります。手前にギュッとたくさんのモチーフを固めて、奥にポンと鳥が一羽だけ飛んでいたりします。このでっかい固まりと小さな点が一枚の絵に緩急を生みます」
身振りを添えて、情熱的かつ真剣に語る小﨑さん。
【日本画家としてこれから進む道】
4月から通う大学院では、平面だけではなくこうした屏風絵や襖絵などにも取り組んでみたいと小﨑さんは意気込みます。
「大学院に進みたい一番の理由は、”大きい絵”が描きたいから。大学だと大きなアトリエがあります。今まで小さくしか描いていないので、大きく描いた時に見つかるエラーや技術不足が見えるはずなんです。そこを一つ一つクリアしていきたい」
現在25歳の小﨑さんは絵一本で生きていけるよう力をつけていきたいと決意を語ってくれました。
「一つ僕には絵を描いていく上で夢がありまして。水族館とか動物園のような生き物に関連した施設に僕の絵を飾らせてもらうことです。例えば江ノ島水族館にはさかなクンが描いた魚のイラストが描かれています。生き物好きで育ってきた僕が、自分の絵で何か世の中に貢献出来ることがあれば!いつかこの夢が叶う日を楽しみにしながら、自分の絵と向き合っていきます」
何かを真剣に語る時の凛とした眼差し。その一方で、家族や友人の話しに及ぶと時より見せてくれる柔らかい笑顔が印象的な好青年でした。
日本画家小﨑拓郎さんに接して、応援したくなる人は多いと感じます。
このインタビューの一週間前に小﨑さんのお祖父様が、88歳でご逝去されました。
『もっとよく見て描いてごらん』
幼少の頃、お祖父様からのこの優しい一言があったからこそ、今、真摯に絵と向き合う彼の姿があるのだと思います。
愛する孫の幸せを願いながら最期まで応援し、泉下に旅立たれたことでしょう。
メインタイトル画像「月光」小﨑拓郎
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー2024年3月某日ー
市内某所にてインタビュー
インタビュー ライティング 雄市
※ 画像、文章等の無断転載を禁止します。
【小﨑拓郎 個展のご案内】
日時:2024年6月8日(土)
~6月15日(土) 11:00〜17:30
6月10日(月)休み、最終日11:00~16:00
場所:ギャラリー ルマニ
千葉県市川市東菅野2-1-28
建物看板「美董舎」内 gallerylemani
【注釈】※出典:広辞苑、Wikipediaなど
*1. 行徳野鳥観察舎:千葉県市川市新浜にある特別緑地保全地区。行徳地区の内陸部の湿地帯や東京湾の埋め立てが進むなか、野鳥の生息の場と緑地を保全することを目的として人工的に造成された緑地である。
*2. 東京海洋大学:東京都港区に本部を置く日本の国立大学。1875年、大久保利通が岩崎弥太郎に命じて設立させた。三菱商船学校が起源。海洋研究において国内最高峰の研究機関である。タレントのさかなクンが同大学の名誉博士・客員准教授となっている。
*3. のだめカンタービレ:二ノ宮知子による日本の漫画作品。またはそれを原作としたテレビドラマ、テレビアニメ、実写映画などの作品。主人公野田恵(通称:のだめ)の通う音大がドラマの主な舞台となっている。クラシック音楽をテーマとしている。
*4. 岩絵具:主に鉱石を砕いてつくられた粒子状の絵具で、絵画、彫刻、工芸、建築に用いられる伝統的な顔料である。
*5. 膠(にかわ):獣類の骨、皮、腱などを水で煮た液を乾かし、固めた物質。ゼラチンを主成分とし、透明で弾力性に富み、主として物を接着させるときに用いる。
*6. 田中一村(たなかいっそん):(1908年7月22日-1977年9月11日)日本画家。栃木県にて木彫家の長男として生まれ、東京市で育った。本名は田中孝。中央画壇とは一線を画し、1958年(昭和33年)千葉市での活動の後、50歳で奄美大島に単身移住。奄美の自然を愛し、亜熱帯の植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描き、独特の世界を作り上げた。