<網膜には映らない向こう側>
子象の顔をかたどったオブジェ。哀しいような寂しいような・・・あるいは見る角度によって優しい目をしています。印象的なこの子象の目。一体何を見つめているのでしょうか?
「その先にある遠くを見ているだけですよ」
制作者である陶・造形作家、川合牧人さんはこう語ります、ご自身の制作について狭山市のアトリエでお話を伺いました。
川合さんは、1958年東京都東村山市で生まれ、荻窪で育ちました。父はプロテスタントの牧師、母は人形作家の家庭に生まれ、いわゆる芸事に関しては理解のある家庭だったと言います。まだ独立のビジョンもなく見るもの全てが新鮮だった20代の頃、川合さんは京都で9年間修行をします。この京都での9年が、陶・造形作家となる下地を作る期間となりました。
「社会の中で働いていく自信が無かった」と当時の率直な気持ちを伝えてくれた川合さん。
何かを作り込む仕事は、没頭出来てそこに人間が介在しない、その至福がたまらなかったと言います。芸術的な雰囲気が常にある家庭で育ち、ものづくりをすることに一切反対が無かったことが、自然と川合さんの進む道を決定づけました。
「どうしようもなく好きなものってあるじゃないですか。それがなぜ好きか?自分の中で埋め合わせていくのが必要です。いつも同じ距離で何かを作ろうとするといいものが出来ない。引いたり寄ったり、角度を変えて見ることで、自分の色を作ることが出来る。それが言わばその人の特色となります」
『その点と点の間には無限の広がりがあり、網膜には映らない向こう側・隠れた世界への道があるようです』
(川合牧人公式ホームページより引用)
ところが、この”啐啄”という言葉を貰ってからというもの、論理的に筋道を立てて作り上げるやり方に疑問を感じていました。
もっと人知の及ばない自然の力を借りて成し得た時にどんなものが出来上がるのだろうか?そういう過程を踏んで、穴窯で焼くことに魅了されていきました。ちなみに、穴窯は、4世紀後半、大陸から日本に伝わった最も古い窯の形式です。
「炎と土と人の手。穴窯という自然に任せる焼き方が”啐啄”の意思に繋がると思えました」
東京都八王子市加住町・長江寺にある川合さんの穴窯を実際に見せていただきました。全長約7メートルの大きな筒状でレンガ造が風合いを感じます。一度火入れをすると後は何時間も待ちながら窯の中で起こる自然現象に委ねるのみとなります。
「何年かに一度、無性にストックしてある作品を一斉に手放したくなる思いに駆られる」と言います。
(オキーフの家から発想を得たオブジェ・川合さんは建築の仕事も手掛けられる)
「別れというのは、自分のステップアップに繋がる一つの機会だと思います。手放すことで、今までとは違う視座、違う視点を持つことが出来、その先に更に質の高い出会いがある。その”出会い”は、今までに無かった作品が完成することでもあるし、新たな人間関係の構築でもあります」
「その頃、亡くなった親父に問いかけたら答えが返ってきたのです。”生徒さんが居るのなら辞める必要は無いじゃないか”ってね。椅子に座って瞑想している時でした。そうしたら生徒たち一人一人の顔が浮かんできて。彼らの存在があって自分が生かされていることにあらためて気づかされました」
(教室内にあるギャラリーふたつの月・その名前にも深い意味が込められている。)
「思ったり考えたりしていることを一度外に手放す。そうするといずれそれがまた時には形を変えて自分に返ってきます。一つの世界に凝り固まることって不健康じゃないですか」
(画像インタビュー直近の展示会・京橋ギャラリー檜 e.fにて)
“あちら側”と”こちら側”
こちら側から見ていた子象には、哀しいことや寂しいことだけではなく、優しくて温かいことも共存するあちら側の世界が映っていたのでしょうか?川合牧人さんのお話しから、当初不可解で不思議だった子象の目が意味するところを垣間見た気がします。
川合さんの作品は2021年、4月ギャラリールマニ2周年の植木鉢のグループ展示会にて披露されます。今は海外からの注文が多くあるとのこと、国内外問わない作風の秘密はこのインタビュー内の言葉か、生き方、制作の過程にあるのでしょう.
川合牧人プロフィール
(1958)東京に生まれる文・インタビュー 雄市 写真・燈tomori編集部
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