「花が枯れる寸前の美しさ」
「それはズケズケと、ボーンと、そこに あるものではない。風化してしまった後と風化する直前の間にある、風化する寸前の愛おしさ。そういった美意識を追っているのだと思う。」
共通の友人のいる作家、その作家との導きによるものか、その作家の展示会でお会いした、洋画家柏田彩子さんと、その友人の作家との共通の美意識について、制作について、宝物を探すように絵画へ触れる入口として、電話でご本人に聞いた会話を紹介したい。
独特のテンポで会話する柏田さんの作風はグラフィティ絵画のようにユニークでいて自由な雰囲気を醸し出す、語り口とも共通するリズムが楽しい。
彼女のキャンバスは時に陶器のような不定形をもったり、和紙のようなゆがみを持つ紙であったり、その画面上にも不可思議なカタチが現れる、肩の力を抜き、眺めていると画面の中に風が漂い、時に海風の囁きやざわめき、光線のゆらぎが視界の裏に浮かぶ、どこかの遠い、それでいて懐かしい記憶に引き寄せられる感覚がある。
画業を辿ると、年代ごとに展示会テーマごとに作者が追い求めるものの輪郭が見えてくる、そこに柏田彩子さんという一人の作家が浮き彫りになってくる。
制作者が、どこかで見たものなのか、狙いがあって生まれてきたのか、本人にもハッキリと計画立てて生まれたもので はないのに関わらず必然性があるものだという。
そこに、作品を読み解くキーワードがあるのではないか。
「例えば画面に人に近い形状を描いたとする、次には、それがこういうものでなくていいようになり、そのうち人の形のようになってきたら、天と地を支える古代神の様に屈折しながらも緊張した手足をそこに存在させる、そして人の形に近いものになってきたと、気づく。」
展示会において、鑑賞者と会話をする時、鑑賞者からの質問にはなかなか順だって説明することが難しいそうだ、本人が探しているものは言葉で説明できるものの中に無い。
「何を描いているんですか?」
「何がモチーフなんですか?」
「コンセプトは何ですか?」
という質問に対して
「あえて答えるとするなら、それぞれの問いに答えを提示している絵画ではなく、消えゆくものの直前と、消えたもの瞬間の時間を描いているといえるのかもしれない。」
と話されている。
制作するもののモチーフの存在については、それが道なのか、凧なのか質問を投げかけるとアークでありアーチと呼ぶ弓なり状態の形、「まゆげ」にも似たユーモラスな”それ”
それが出現する前にまず、枯草みたいな広い草原がイメージにある、画面と対話するうちに
「強いカタチが欲しい」
と思う、描いたあとに
「何だこれ」
と思うものが生まれてくるということだ,
それは無計画に突き進んでできたものでなく、偶然性のあとに生れ出た必然性をもったもの、塗って、描いて、削って、調子を置き、さらに消し、その画面での軌跡があってこそ、生まれでてきたカタチ
「無造作かつ自然でそこにあるものの美しさ、路上にある傷、古びた擦り切れそうになったもの、崩落する直前のものに美を感じる。」
画面に向き合って制作してる時は、夢中になれる時だという、本来の自分の仕事は制作であり、あくまでも生業とは別のものという認識がある作家は現実がどうあろうと、一人の制作者であろうとするものに変わりはない。
柏田彩子さんの目や美意識はその瞬間、永遠に存在しないものに向いている。
「画面の中に研ぎ澄まされた美意識があり、絶対に欲しいと思うものがある。」
「必然はある」
「お気軽に制作してる訳じゃない。」
ゆるやかなカタチとうらはらにそのカタチができてくる過程には本人が画面と対峙している時間が内包されている、生れてはつぶし、潰した過程の上にまた新しいカタチが生み出される、その時間の中にこそ美を探す、会話の中で何度も話す美という言葉、言葉で表せない柏田さんだけがもつ記憶の美。
共通の友人が気に入ってくれた柏田さんの作品。
おそらく鑑賞者と制作者の橋渡しをするものが、必然をもった、生れ出たカタチなのだ。彼女が美大を目指され美術を学んでいた頃、その教室の指導者から
「どの作業においても、どの瞬間を切り取っても美しくないといけない」
と、指導されたことがあるという、棟方志功氏のお手伝いをされていたことがあるという教師が話されたことだ。
それは当然、下地づくりから始まる。ある作家によれば下地で九割完成することもあるが、下地の段階で決まってしまっては次の作業が置けない。なので下地を大切にするとともに時の経過で進んでゆくのだ、美しい記憶を辿りながら追いながら。
「楽しく、真剣に会話ができる」
と、言う。絵を描いてる状態が、その人がその人のままでいられることは本当に幸せなことだ。制作の中でこそ本当の自分自身であるのだろう。
長い時間をかけて羽化しては消えゆく幻の蝶を追うかのように、美しさを追う、塗って、潰して、削って、その上にまた新たな面を生む、その上に捕まえて画面に定着し、
「これだ!」と、リフレインする、自分の中の何かと何かの狭間にある記憶、消えゆく直前の美意識をつかんだ瞬間。
その心地よさ。
柏田さんの絵画を鑑賞する時、ふと肩の力が抜けていることに気づく、無理をしなくていい、後ろから「呼吸をして」と囁かれ、絵に近づく、また絵から離れる。そして、ある絵によっては笑みがこぼれる、かつてそこにあった時間、それは遠い記憶の中で鑑賞者である自分自身が一瞬でも身を置ける場所であったのかもしれない。
深い呼吸をしたり砂浜に存在したり、遠い星につながってゆく感覚、どこまでも広がる星空を見ていたいのに、その時間には限りがあり、誰かに呼び戻されることを予感しながら、惜しみつつ目を閉じる手前の時間。
ある時は引き潮から遠ざかった砂浜に、足先が沈み込み指を引きずる砂の感触を思い出し、波だけが行き、取り残された自分だけがここに残ったということを感じさせる。
寄せては返す波のように、自分が波と会う瞬間、それはもう次の瞬間そこには存在しないもの。
時に、制作者が提示した、その時間の前と後の間にいるものを探す行為は、それを見る行為によって自分の体験の中で再現される。
柏田さんの「それだ!」の、カタチは鑑賞者の人の数だけあり、次の瞬間にはなくなるが確かにそこにあった時の入り口なのではないだろうか。
2021年3月20日より「柏田彩子展」ギャラリールマニ 市川(千葉)にて
詳細は追って公開予定。
Saiko Kashiwada (kashiwadasaiko.com)
文・インタビュー 写真・燈tomori編集部
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